【まちなかストーリー】株式会社 大と小とレフ 鈴木一郎太さん 第1回「海外から浜松に戻って独立起業するまでのきっかけ」

まちなかで活躍する人にスポットを当てて、そのヒトの街に対する想いや物語を紹介する「マチナカストーリー」。
前回の絵本の店 キルヤの星野さんから紹介いただき、8人目は株式会社 大と小とレフの鈴木一郎太さん。全4回に分けて、毎週お届けしていきます。

今週は第1回「海外から浜松に戻って独立起業するまでのきっかけ」についてお話していただきました。

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人物紹介


鈴木一郎太さん
浜松市出身、1977年生まれ。小学校まで浜松、中高は静岡の学校、その後アメリカ・イギリスへと渡りロンドン芸術大学を修了。1997年から約10年間イギリスに滞在し、アーティストとして活動。帰国後はNPO法人クリエイティブサポートレッツに勤務し、障害福祉や文化事業の企画・ディレクション行う。2013年に建築家の大東翼さんとともに株式会社「大と小とレフ」を設立。
浜名湖花博2014一部エリアのキュレーション、静岡文化芸術大学の地域プロジェクトに関する研究事業のマネジメント(projectability)、ゲストハウス(大阪、長野)立ち上げなど、様々な企画・ディレクションに携わる他、まちなかのゆりの木通り商店街にあるセミナールーム「黒板とキッチン」を運営している。
NPO法人こえとこころと言葉の部屋(ココルーム)理事
静岡県文化プログラムコーディネーター

WEBサイト:

第1回 「海外から浜松に戻って独立起業するまでのきっかけ」

ーー浜松に来る前は海外にいらっしゃったとお聞きしています。一朗太さんが浜松に戻ってくるまでの経緯を教えてください。

小学校までは出身の遠州浜、中学高校と静岡に行って、その後はずっと海外にいたんです。アメリカに1年いて、その後イギリスに9年半くらいいて。なので20代まるまる日本にはいなかったです。

イギリスではアーティストをしていて、絵を描いて、ギャラリーを通じて売るとか、展示をするとかをしていました。海外はアート作品を買う文化とか、マーケットの大きさが日本とは全然違うんですよ。

なんとかなりそうだなって思っていた時に、ちょうどEUの拡大があって。すごく拡がった時期と重なってしまった。2004年、2007年くらいの頃ですね。

EU第5次拡大EU加盟国と地図 第5次拡大 | 外務省
2004年に10カ国、2007年2カ国がEUに加盟。主に東側の国々。
キプロス、チェコ、エストニア、ハンガリー、ラトビア、リトアニア、マルタ、ポーランド、スロバキア、スロベニア(2004年)
ブルガリア、ルーマニア(2007年)

それまでは、わりと豊かで国力がある国々がEUに参加していたところに、段々と格差が明確な国が参加してきて。その時1番印象に残っているのが、ポーランドですね。

ポーランドやギリシャがEUに加盟し始めた頃、まだギリギリ、イギリスがバブルでした。なので、みんなEUから出稼ぎに来ていたんですよ。物価がものすごく違ったんです。

そんな背景があるので、ポーランドがEU加盟するよってなった時に、予想では1万人流れてくるだろうって言われていたところに、定かではないですが、加盟後ひと月で3万人くらい流れてきたという話を聞きました。

すると、低賃金労働が奪われていき、イギリス人の仕事が減っていったんですね。

それをどうにか規制しなくてはいけない。でもEU圏内では規制出来ないので、EUの外から来る人への規制がすごく厳しくなっていったんです。就労ビザを取る条件もすごく厳しくなったし、アーティストビザなんて元々ハードルがとても高い。

そういう時代の煽りもあって、日本に戻らないといけなくなったんですよ。

ちょうどその時期に帰国して、大使館でビザの申請をして審査を待っていて。

いざ、結果が届いたら「更新出来ませんよ」って。ちょっと待ってよって(笑)もうビザが切れるまで3週間しかないんだけど!

しかたがないから、戻るしかない。1週間後のチケットを取って戻って。2週間で10年分の荷物を全部まとめるなり、処分するなり、引越し屋を手配するなり。

昼間はパッキングして、夜は友人たちと飲みに行って事情を色々話して。それで、戻ってきました。それが30歳くらいの頃ですね。

荷物を実家に送っていたのもあって、実家のある浜松にそのまま戻ってきました。

ーー帰国して、浜松のNPO法人クリエイティブサポートレッツ(以下 レッツ)に勤め始めたんですね

特定非営利法人 クリエイティブサポートレッツ
クリエイティブサポートレッツは障害や国籍、性差、年齢などあらゆる「ちがい」を乗り越えて、全ての人々が互いに理解し、分かち合い、共生できる寛容性のある社会づくりを行っています。

そうですね。はじめはそのまま作家もやろうと思ったんです。浅草橋にある「CASHI」というギャラリーが拾ってくれて所属しているのですが、こっちに戻ってから全く制作しなくなってしまって、今は肩書も含めアーティストとして活動はしていないです。

ーーこんなことを聞くのもなんですが、アーティスト活動をやめることについては未練はなかったですか?

僕の場合は、元々やりたい事をやっていきたいな、というのがぼんやりあって、それを当てはめていったら、その先にどんなこともできそうなアートっていうものがあったという感じだったので、そんなにアーティストの肩書に思い入れはなかったんです。始めに関心を持ったのはファッションデザインでした。

中学2年ぐらいの頃に、ファッション雑誌でデビューしたてのジョン・ガリアーノやアレキサンダー・マックイーンがすごいぞ!と思って調べたら、二人ともイギリスのセント・マーチンズ・カレッジ・オブ・アート・アンド・デザインっていう学校出身だと知り、

「中学卒業したら、俺行くわ。もう高校は無駄だから」って。親もなんとなく納得してくれて。

セントラル・セント・マーチンズ ・カレッジ・オブ・アート・アンド・デザイン – Wikipedia
セントラル・セント・マーチンズ (Central Saint Martins) はロンドン芸術大学の中のカレッジの一つで、著名なデザイナーを輩出している大学。CSMの略称でも知られている。

でも、よく調べたら高校を出ていないとダメだって条件があったので。じゃあしょうがない、エスカレーターで行けるし高校は行こうって。

高校に通う間にいろいろ考えが変わって、「ファッション」だけだと狭いかもって思うようになったんです。それで、なんかいろいろできそうな「アート」があるぞと。アウトプットとしてはなんでもありな「アート」を発見して、そっちに行くことにしました。

個人的にはアーティストという肩書きに憧れは一切ないですね。本当にその辺はぜんぜん未練もなく「アーティストもういいかな」って思えるくらいに。僕、今は一切アーティストって名乗ってないですからね。

レッツにいた頃もアーティストではないので、レッツにいた頃が1番よくわからない時期でしたね。これが30歳~30半ば過ぎくらいの頃です。

ーーレッツでいろんな事をやってきた中で、印象に残った取り組みはありますか?

街絡みの取り組みは面白かったですね。

たまたま文泉堂書店跡の建物のオーナーさんと知り合いで、使わせてもらえないかとお願いをするところから始めて、掃除をして。で、いざきれいになったら、今度は、中に何もないという状態で、トイレの扉や入口の壁からそのつど作っていました。

そこでやった事自体は、街のことを考えてやった事業というより、法人の理念に基づく事業だったので、必ずしも街の考えや理屈と合うとは限りませんし、中心市街地の活性化といったお題目を意識はしていませんでした。

でも、街には街の事情があることは理解していたし、街が楽しくなってほしいなっていう気持ちもありましたね。

だから自分達は自分達の目的という軸を持っているんだけれども、街の事情っていう軸もあって、建物のオーナーさんの思いという軸もあり、その3つの思いや軸をすり合わせていくっていう作業が絶対必要だと思い、そのすり合わせを考えるのは楽しかったです。

例えば、ピンクが好きだから家をピンクに塗っちゃおうってなんの相談もなくいきなりやらないですよね?そんな感じで、街が何かする時には、ごく当たり前にご近所付き合いみたいな感覚で、企画や目的や状況とのすり合わせが必然的に生まれてきて。特に個人とのすり合わせが僕は非常に面白かった。


今回はここまで!
次回の公開予定は3/10(金)、「株式会社 大と小とレフ」の鈴木一郎太さんの第2回「独立起業への決断と、大と小とレフという会社について」です。お楽しみに!